ソフトSMはセフレと |
ソフトSMは、セックスの刺激剤として普及しつつあります。しかし、ソフトで手軽な側面とは裏腹に、恋人を敬愛できなくなるという危険な落とし穴が。なので、ソフトSMはセフレと楽しむのがお薦めです。
男女間の愛について、「貞操」という言葉があります。「操を守る」という言い方もします。死語にまでなってはいないけど、あまり使われなくなった言葉ですよね。
コトバンクによれば、「社会的に承認された配偶者でない者と性的関係をもたないこと。貞操観念の形成には生理的,宗教的,倫理的,社会・経済的諸条件がある。歴史的には妻の貞操義務のみが重視される場合が多かった」とありました。
この説明から、いくつかのことがわかります。先ず、貞操とはメンタルなあり方を指すのではなく、フィジカル=セックスについての制限であること。
女性が貞操を守り通すのを「操を立てる」と呼びますが、これは「他の人を好きにならない」という意味ではなく、「他の人とセックスしない」ということなんですね。
そして、もう一つ興味深いのは、様々な条件によって基準が変わり得るものだということです。
日本でも、夜這いの風習や権力者への人身御供が残っていた時代と現代とでは、貞操観念はかなり違う筈です。また、「現代」とひと括りにするのは、乱暴ではないかと思えます。
インターネットの普及とアミューズメントの多様化によって、世の中全般の貞操観念は次第に緩みつつあるように感じます。
男が恋人に対して求めるのは、性欲を満たすことだけではありません。会話を楽しんだり、気持ちを理解しあったり、悩みを相談しあったり、趣味や夢について熱く語ったり。そうした精神的な交流がもたらす満足も、同時に求めています。
これに対して、セフレはセックスで欲望を吐き出すだけの存在です。「セックスフレンド」とはいっても、実質は友達ではありません。友達とは(恋人と質は違っても)精神的な交流を求めるものですが、セフレにはそれはありません。
理想的なのは「合意と納得の上で」のように双方が割り切った関係ですが、男性に構って欲しい女性やさびしがり屋の女の子に声を掛け、なし崩しにセックスに持ち込むという形が大半でしょう。
いったん体を許してしまえば、はっきりとした事もいわずにヤリまくり、女性が扱いに不満を言ったり、自分が飽きてしまえば、何の一方的に別れてしまう。男とすれば、最初から付き合っていないのだから、拾ったものを捨てただけというような感覚。
そこにソフトSMを持ち込むということは、ヤリ捨てようという男の姿勢がミエミエ。その女体の味を気に入れば、ソフトでは終わりにならず、彼がしたいSMプレイをとことんされ尽くされる可能性もあります。
自然な流れの中で体の自由を奪われるのがSMですから、どんなプレイの動画を撮影されても不思議ではありません。しかも、自分でも気づかないうちに撮られている可能性すらあります。
当ブログのタイトル「ソフトSMはセフレと」は、男の都合をひと言で言い切ったものです。本格的なSMを思考するサディストのすべてが、奴隷に対してきちんと責任を持つ訳ではないですが、セフレとしてヤリ捨てようとする男達より、少なからずマシかもしれません。
間違いなく大きなお世話だし、そうしろと言って出来るというものでないのは重々承知で言う訳ですが、女性は性において弱者です。男を見る目は養いすぎることはないと思います。
男とは、セックスしたいイキモノです。その認識は間違っていません。むしろ、そうでないと思うのは危険です。しかし、だからといってすべての男は卑しく、女の体だけが目的だと思うのは致命的な短絡です。
本物の愛を抱いている相手に対する「抱きしめたいと思う気持ち」と、性欲を持て余した状態で感じる「射精したいと思う気持ち」は別物です。共通のエモーションは存在するかもしれませんが、根っこが違います。
男がSMに誘導しようとするのは、もっと気持ちよく射精したいからです。もちろん、本物のサディストの中には、射精=快楽の極ではないケースもあるので、ある種の比喩だと思ってください。
おのれを安売りする必要などない。だけど、この人が運命の人だと感じたら、心も体も魂も投げ出すのが後悔しない秘訣です。
但し、運命の人を見極める目は、あなたが生まれてから培ってきた眼力次第です。甘言に騙されても、誰にも文句は言えません。だからこそ恋は面白く、命を賭ける価値があるのです。